13医王山線・14田上住宅線




現在の幕です。ただし、使われるのは朝の医王山行きの1便のみです。
通常は小立野・旭町経由ですが、朝のみ金商高校経由で運行されているため、
幕も金商高校を表記しています。

三菱車が入ることも違和感があります。
現在ではノンステから日野中型まで幅広く運用に入っています。



東部営時代の幕です。記憶は定かではありませんが、
ほくてつ北部に移管された後も同じ幕だったと思います。

さて、この医王山線は昭和33(1958)年7月に「湯谷原線」として
金沢駅〜香林坊〜湯谷原間で開業しております。
当時既にこの地区には国鉄バスが路線を持っていましたが、もともと
本数が少なかったため両者の棲み分けは当時からできていたようで、
昭和62(1987)年に北鉄に一元化されるまでこの状態が続きます。
(このさい、北鉄は医王山線を貰う代わりに才田線を手放しています。)

当初は湯谷原までの路線でしたが、昭和40年代には新聞に「医王山線」
とあることから、市電廃止のころまでには医王山見上山荘(のちの医王山登山口)
まで延伸されていると思われます。
昭和62年までは一日わずか3往復でしたが、一元化後は一気に9往復
(始発便は如来寺前発、終バスは医王山から戻ってきて小立野3丁目止まり
という一往復を含みますが。。。回送にしなかったのはエラい。)まで増えました。

平成4(1992)年10月、太陽が丘ニュータウンへの乗り入れが始まります。
いわゆる「デマンドバス」方式で、バス停に設置されているボタンを押すと
ニュータウン入り口に設置された信号(?)が点灯し、それを確認した運転手が
ニュータウン内に乗り入れる、というものでした。
この画期的な取り組みはのちの穴水病院乗り入れのさいにも参考になったのでは
ないでしょうか。
「デマンドバス」は平成10年ごろ、利用者の増加に伴い全便乗り入れとなり
廃止となっています。(情報ご提供:フルーティさん。)


▲03年以降、ごく稀に大型ノンステの運用もあります。

平成13(2001)年3月、担当がこれまでの東部営業所からほくてつバス
に移管されています。また、同年8月、小立野トンネルが開通し、医王山線も
これに伴い従来の金商高校経由から旭町経由へと変更されました。ただし、
先述のように朝の一便のみ金商高校生のために
従来どおりの経路が維持されています。
また、03年4月からは金中の担当となり、
同年9月から土日のみ戸室リサイクルプラザへの乗り入れも開始しています。

このように田上、太陽が丘地区の発展もあり順調な医王山線でしたが、
06年4月には医王山登山口行きが消滅し、一つ手前のスポーツセンター前
までの運行となり、さらに減便もなされ、やや寂しい状態となってきました。

07年4月からは全便が金沢駅まで延伸され利便性が高まっています
(これは昭和40年代から利用者の要望であったものだそうです。当時から
兼六園下や香林坊での乗換えを強いられ、運賃が余計にかかっていたためで、
やはり当時の新聞記事にもなっています)。



こちらは金中が担当するようになってから作られた幕で、
旭町経由の便はこちらの幕を使用しています。



東部営時代の小型幕の頃はこのような幕を使用していた
と思います。小型幕なので、どうしても2段表記になって
しまったのでしょうが、こちらのほうが見やすいのでは。。。?



LED幕はまた表記が少し異なっています。
こちらも朝の1便でしか見ることができません。



医王山、というシンプルな表記は医王山登山口行きの幕です。

06年4月にこの停留所が廃止され、現在では全便がその1つ前の
医王山スポーツセンターまでの運行となっています。
このあたりには民家が少なく、利用者は皆無に等しいのですが、
学生の部活動の試合や合宿でバスを利用したりもするため、
欠かすことはできない路線です。



LED幕は小立野のみの表記です。
なお、金中のLEDががまだローマ字併記なしの時代でも、
13・14・88・90系統など、旧ほくてつバス担当路線は
ローマ字併記幕でした。



湯谷原行きの幕です。
夕方には県庁前始発の便もあります。



東部、ほくてつ担当の頃は経由地表記は「小立野」のみでした。



一日一往復ですが、太陽が丘止まりの便も存在します。
なお、95系統も太陽が丘へは行きますが、ここが終点となるのは
13系統のこの便のみとなっています。



現在の金沢駅行き幕です。番号以外は14系統と
違いはありません。
柳橋時代の記憶はありませんが、東部時代には白黒幕だった
ような気がします。

金沢駅まで走る便は少なく、朝夕にのみ見られるものでしたが、
07年4月より全ての便が金沢駅まで延長されています。



13・14系統ともにほとんどの便が香林坊止まりでしたが、
07年4月でこの幕も見納めになっています。



兼六園下止まりの便もまた消滅しています。
このほか、最近まで如来寺前発の湯谷原行きや、
医王山発小立野3丁目行きなども存在していました。


 

本数は少ないですが、
こちらが「田上住宅線」を名乗っています。
鈴見線ではなくてこちらが本家だということを
さりげなく主張しているように思います。

誕生は、医王山線よりもはやく昭和30(1955)年10月で、
金沢駅〜下田上の運行でした。この直後に国鉄バスも参入してきています。
くわしくは、もりさけてんさんのサイトをご覧ください。

市電廃止の昭和42(1967)年2月時点では15往復があり、
さらには金商高校までの区間便が日中にも存在していたそうです。
翌43年11月にはこの区間便は消滅しますが、同時に
終点が田上支所前(田上出張所前か)から田上住宅へと延長されています。
下田上終点がいつ田上支所終点となったのかは分かりませんが、
おそらく医王山線開業のころではないでしょうか。

昭和49(1974)年6月改正で、10.5往復に減便されると同時に、
6便あった橋場町経由便の廃止と橋場町〜田上2便の廃止が行われました。
この年は多くの橋場町経由系統が終焉を迎えていますが、武蔵ヶ辻の地位
向上と相対的に橋場・尾張町の地位の低下が背景にあると思われます。

昭和50(1975)年には現在に続く「14番」の番号を与えられます。
この時、13番の番号は鈴見線に与えられたため、医王山線も14番を
名乗っていました。医王山線が13番を名乗るのは、昭和59年のことです。

担当は、こちらも東部営業所で、80年代からは中型車を使用していましたが、
平成13(2001)年3月、車両ごとほくてつバスへと移管され、元周遊号
なども活躍していました。
03年4月には、金中へと移管されて現在に至ります。



朝に片道1本のみの運行の金商高校行きです。
かつては日中もこの便があったといいますが、
それも数十年前のこととで、長らくこの便は時間も
ほぼそのままで運行されています。



13系統と同様、14系統も07年4月に金沢駅までの
全便延長を果たしています。

05年〜07年は131がよく運用に入っていました。
鰻で有名な「杉本水産」の広告が側面・後面全てに入っており、
この写真にも写っています。ですので、
一部の人の間では、131号車は「うなぎバス」と呼ばれていました。



香林坊発着が長らくメインでしたが、この写真の撮影
された昭和60年もそうだったのでしょう。
東部営担当時代ですが、この頃はまだカラー幕で、現在の
金中のものと同じです。

「ワンマン」がデカデカと書かれているあたりが
時代を感じますね。おそらく廃車寸前だったと思われます。

写真ご撮影:H−199さん



兼六園下止まりの便も現在は消滅しています。
幕は、金中のものです。ほくてつバス・東部営時代の幕を
覚えていらっしゃる方がおいでましたらご一報ください。



東部時代末期の幕です。
シンプルに「香林坊」のみの幕ですが、
「小立野  香 林 坊 」の幕での運行も見たことがあるような。。。